2011年11月22日火曜日

仮まとめ

 ぐっと遅れてしまいましたが、ブログ更新致します。宮永です。    
あっという間にもうすぐ搬出作業と言う時期、次は村山さんの展示ですが、おそらく僕の搬出作業と村山さんの搬入作業がかぶると思うので、展示の一端にみなさんより先に触れられるかと。とても楽しみです。

現在開催中の僕の展示をご覧頂いた方、有り難うございます。

    
美術作品は、その見方、もっと言えば個々の観客の方が作品イメージから想起される身体感覚・イメージに対する記憶等を作品に「投影」すると言う行為、に関して、あらかじめある程度の流れが設定されている事(あるいはその流れが端的であること)が、作品の距離を親密にするものだと思います。

   
ただ今回に関してはそう言う親密さを解体するような方向性を持っている訳です。

   
実写映像(動画)を美術に導入する場合に、映画的にも、あるいは写真でも可能であると言うイメージはあると思いますが、さらにアニメーションやモーション・グラフィックスも、技術上可能になってきています。今はそれらの可能性を探っているのですが、それらの映像分野の細目の違いに言及する事にも興味を持っています。素材自体を示す事で今度はそれら細目の差異をも見せられないかと言うのが理由の一つ。実写と言う言葉のイメージから飛躍したいと言う気持ちもあります。

   
コンテンツとそれが載るメディアと言う視点も一つです。これは現代における多様化したメディアと言う流れのなかでは、映像表現が避けては通れないもので、また内容と分断可能な媒体が世界のありとあらゆるところに広がりつつある現状に、それらが不可分な状態を長らく価値としてきた美術がどう相対するかと言う話になってくると思います。

   
それら二つの理由から、中心となる映像作品を解体した訳ですが、その際に使った概念はやはり「レイヤー」と言う事になります。

   
実写でありながらアニメーションライク、あるいはモーション・グラフィクスライクな、あるいは時々一部CGを使っていると誤解されることもあるので、CGライクなとも言えると思いますが、僕の作品内ではそれらは全て平面レイヤー構造で作られています。ただし、その一つ一つのレイヤー自体が実写映像と言う、ある程度の奥行き感を持ったものであり、重ねてゆく(編集する)と言う過程でそれらの奥行きの情報がどのように変質してゆくか、と言う事が僕にとって一番大事な事です。

   
また、これはプロジェクションと言う形式の場合に限定されるかもしれませんが、内容(映像)と媒体(物質)をともに意味的レイヤーと言う概念の元に並列化しようと試みました。これに関しては、まだまだ先のある試みだと思っています。

   
と言うのが現時点でのまとめです、が、何故解体したか、と言う事に関して今回2つの理由を上げましたが、自分の中で3.11の影響が無かったと言う訳でもありません。と言うか、非常に大きかった。単純に解体可能と言う事よりは再び組上げる事が可能な構造体であると言う事も大事で、自分の中にある非定住性の暮らしに対する興味等、論理的な強度で言えば様々なレベルの異なる意味が、レイヤーとして重ねられている状態です。

    
今言えるのは、作品(インスタレーション)の内部構造として、うまく重なるかわからない意味のレイヤーをある種無理矢理に重ねてゆくと言う行為は、映像作品を作る過程の延長線上にある、と言う事でしょうか。つまり、映像と言うリアリティーの側から逆に現実を見ているのだと思います。

つらつら書いているとだいぶ字数がオーバーしてしまいました。まとまりがありませんが、今回はこのくらいで。

 
最終日には下道さん、高橋さんとのトークイベントもあります、宜しければお越し下さい。

2011年10月27日木曜日

「行為する私」

宮永くん、展覧会オープンおめでとうございます。とても興味深い展示内容になっていました。どこか絵画的な映像によって「多層化する風景」が現出しているようでした。視点を移動させながらインスタレーションのなかを動くと、映像の構築と融解によって時間構造がゆらいでゆく、そんな感覚でしたね。

今回は僕の展覧会ステイトメントができましたので載せておきます。


「行為する私」とは何だろうか?そして、私たちはそれをどのようにして知ることができるだろうか?
私はこの問いにたいして、「学習的ドリフト」、「ドローイング/カップリング」、「変態のダイアグラム」という3つの画像的解釈を示したい。


「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動している。例えば、ペインターが画面に筆をいれるとき、その一筆一筆は前に形成された形態や色彩に制御されている。そのような観点においては、簡便にいえば、「私」とは一つのプロセス(動態)である。人間の行動を理解するためには、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めたプロセスとして考える必要がある、とベイトソン(Gregory Bateson)も述べている。


しかし、「私」を絶えず行為のさなかにあるプロセスとしてみたとき、対象として観察することが困難になってくる。自己は、知覚によって新たな自己を産出しつづけ、常にスライドしてゆくからである。よって、これまでこのプロセスへの理解は、現象学のように私によって「私」が内感され、そこから定式化された記述の系として織り上げられてきた。それが「私」というプロセスに照応されるのである。ただ、この理解はテクストの線形性を免れることはできない。では、そこからさらに踏み出してゆくにはどうすればよいのか?


私はフルッサー(Vilem Flusser)の「テクノ画像」(Techno image)という概念を経由することによって、「私」というプロセスの画像的解釈を試みる。「テクノ画像」とは、世界から言語が論理や関数的な関係性によってとりだす意味や概念、それを画像化する。いいかえれば「事態」を示す平面である。よって、それは世界を直接的に描写する絵とは根本的に異なっている。「テクノ画像」をつくり出すのは装置であるとフルッサーは述べているが、私は身体行為を含むコード化されたシステムを用いて、これを実践したい。それによって、「私」というプロセスの線形的な理解から、平面的な解釈へとシフトする。


ではそのプロセスとは、どのような作動のモードが考えられるだろうか? この展覧会では3つの動態を提示する。「ドリフト Drift」、「カップリング Coupling」、「変態Metamorphose」である。これらは河本英夫氏のオートポイエーシスの諸概念が大きな参照項になっている。オートポイエーシスの画像的解釈によって、「私」というプロセスの別様の理解の局面を開いてゆきたい。それが、私が投企する”「私」のゆくえ”である。

村山悟郎

2011年10月17日月曜日


皆様、ご無沙汰しています。
ブログの更新が滞っておりご迷惑をおかけしております。村山さんすいません。

本日までまさに僕個人のgallery αMにおける展示作業が大詰めだったのです。ようやく先程、9割がたの作業を終えて今一息ついているところです。

僕のブログについて村山さんが「情報と物質の中間項」と言う風におっしゃって下さいましたが、今回の僕の展示もその意味合いを持って見て頂ければ、だいぶわかりやすく見て頂けるのではないでしょうか。

情報として世界を駆け巡れるというのは、映像の強みです。ただ現代において「情報」という言葉が必ずしも好ましいものとしてのイメージだけを持っているのではないことを考えれば、それは弱みでもあると言えます。

ちょっとだけネタをバラしておくと、今回は画廊の中に一つの建物というか、小屋を組み立てました。そしてその部屋は、建築資材や合板、木材を使用した、繰り返し組み立て・解体の可能な構造となっています。

今回メインのイメージとして、新作の”arc”と言う映像作品をプロジェクションしますが、それらに使った素材や編集途上の映像(僕はこれを中間素材と呼んでいます)も空間上に展開します。実際の物質部分でも、上記の小屋の個々の部品がスクリーンとして展開されます。

前回申し上げた「厚み」と言うものは映像作品の中に意味のレイヤー構造による意味上の厚みでした。今回のインスタレーション狙いの1つには、その厚みと実際の物質の厚みを対比させて見られるものをと言うのも勿論あります。
ですがそれをもうちょっと進めると、映像も物質も意味のレイヤーとして等価に、並列的に見る、と言う視点に行き着くと僕は思います。情報と物質と言うものの間に本質的な差異を見いだす事よりも、双方をありのままに現実として受け入れると言う姿勢の重要さを僕は感じています。

今回どこまでそのコンセプトを実現させられたか、そのご判断はギャラリーで展示を見て頂いた方々に委ねたいと思います。

宮永亮

2011年9月23日金曜日

泣きながら生きる人/林加奈子



こんにちは。9月、ロンドン、最近はまだ暖かく過ごしやすい日々です。
先日、こちらの国際交流基金が主催するトークショーに行って来ました。国際交流基金は定期的に日本からのゲストを招いてレクチャーやプレゼンテーションなどを開催します。お客さんはいつもだいたい半分が日本人で、その他色んな国籍の方が来ています。私は日本の情報や動きを知るために度々これに参加しています。

今回のゲストは美術家の小沢剛さんで、とても面白いプレゼンテーションでした。プレゼンテーションでは、小沢さんのキャラクターと彼の作品のユーモアセンスが混ざり合い、会場には度々笑いが起こっていました。日本人だけに伝わる笑いや、しょーもない笑いではなくて、お客さん皆それぞれがマイペースにクスクスと笑う、そんな、いい空気が流れる時間でした。たとえ国籍や笑いのツボが違っても、ユーモアを共有し、一緒に笑うことができる。同じ人間だもんなぁ、と改めてそんなことぼんやり考えたりしました。

小沢さんの新作の映像「Happy island」と言うタイトルの10分くらいの映像作品を紹介してくれたのですが、これを見て涙が出た。その理由は、、今はよくわからない、と、しておきたい。思考よりも先に、グッと感情が込み上げてきて、胸がいっぱいになったから。いくらでも言葉にできるような気がするけど、今は言葉に置き換えることよりも、もうすぐ日本に戻るまでこの感情を大切にしていたいと思う。

小沢さんの制作、彼もしかしたら泣きながら生きている人間なんじゃないかな?と思った。
小沢さんはいろんなタイプの作品があるけど、いくつかの作品の中に、人間が持つ美しい1側面を見せられているような気がして、なんかキラッと光っている、彼、ハートが熱い。人に世界を信じる勇気を与える。

林加奈子

2011年9月6日火曜日

「再魔術化」pt2

12月からのαMでの僕の個展も少しずつ近づいてきました。先日、イギリスから完全に帰国して、今は立川にスタジオをかまえて制作しています。

ロンドンの様子は林さんの言う通り、多文化主義の坩堝(るつぼ)といった感じでした。とても多くの民族と文化が流入していながらも、それらの各レイヤーが維持されているという印象でしたね。林さんがどんな答えを出すのか、楽しみです。
宮永くんのテクストを読んでいると「情報と物質の中間項」を探っているのかな、というイメージが沸いてきます。「厚み」というコトバに含まれている内実が映像に現れてくると思うとワクワクしますね。


さて前回に引き続き「再魔術化」について書いてゆきます。「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とはいったいどういうことでしょうか?いまいちど、僕の個展「絵画的主体の再魔術化」資生堂ギャラリー(2010)から考えてゆきたいと思います。その個展ではG.ベイトソンの「精神の生態学」から引用したテクストを配付しました(以下URL、参照)。

http://goromurayama.com/works/works_d/works_02.html

ここでベイトソンは、サイバネティックスな思考法において、”「私」を画定すること”とは何か?ということを、盲人の歩行を例に説明しています。その思考法とは以下のようなことです。人間の行動を説明ないしは理解しようとするとき、原則として、トータルな完結したサーキットの全体を相手にしなくてはなりません。(ベイトソン「精神の生態学」)」
つまり彼のいう「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動しています。そのような観点においては、簡便にいえば「私」とは一つのプロセスです。そして、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めて考えることが必要なのです。主体の再魔術化とはそのような認識論に基づいています。ベイトソンのこうしたアイデアについて佐々木正人は、ギブソンの「アフォーダンス」と、"精神を広く世界に観察しようとする態度において" 一致していると指摘しています。

「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とは、『絵画』を「絵画的主体」(絵を描く人)として捉えるところから始まると考えています。引き続き、書いて考えます。

村山悟郎

2011年8月30日火曜日

厚み

いよいよ僕自身のαMでの展示も近づいてきました。現時点の僕の力量からすれば、大掛かりなものになるとは思います。京都→東京への輸送の段取りだけで大変そうですが、頑張ろうと思います。

再魔術化、重なり合うレイヤー、どちらもとても重要な言葉のように思います。

僕個人は科学的思考というものは、ある仮説に対し、その仮説を裏付ける観測が出来るだけ多くある場合、それが限りなく真実に近いと言える、と言う統計的手法のイメージが強いです。勿論昨今の科学はもっと進歩、変遷しているのでしょう(ustreamでかの児玉教授が言っておられた、パラメーターの多少の話が興味深かったです)が、一般的理解と言う意味では僕の持つイメージに近いかも知れません。物質の大小を計る物差しは、思考の上ではどこまでも任意に大きく広げてゆけるし、その逆も然りで、想像の上ではスケールと言うものは無限に続く訳ですが、統計学的に考えた場合「真実」と「限りなく真実に近い」はどれだけ観測数を増やしても、その間にある差は永遠に埋まらないばかりか視点が微視的になってゆけば行くだけ、その差は広がってゆくような感覚に陥るかもしれません。僕はそこが面白いとも思うのですが。

レイヤーと言う言葉を使う場合、ある世界の中にある異質なもの異質な層の分化←→重層と言う両方向性が思いつきます。物理的な現実における各々の意味のレイヤーは、視点のミクロマクロの程度により一つのレイヤーがさらにいくつものレイヤーに分かれて見えたり、またレイヤー自体に凹凸があり(これを僕は今厚みと表現しようと思いますが)、実写映像はそれが厚さゼロに圧縮されてしまうような奇妙なものだと思っています。イメージ自体が確固として存在するのでは無く、色の違う光が物質面を照らし出していると言うのが、結局のところ実際に起こっている全てでもあります。前回映像を絵の具のように、と言いましたが、他に自分のアプローチについて言える事があるのなら、ある実写イメージに別の実写イメージを重ねる事で、不思議に圧縮が解かれてレイヤーが分離し、さらにその隙間に何ものかが流れ込んで新たな厚み=奥行きを獲得する瞬間を待っているのだ、、、と言えるかもしれません。

程よく文章にも再魔術をかけたところで(?)、今回はこの辺で失礼します。


宮永亮

2011年8月15日月曜日

ロンドン生活/夏の終わり



こんにちは。林加奈子です。ロンドンは大学が終わり夏休みに突入しました。街のムードはバカンスで中心街は世界中からの観光客で大混雑しています。そんな中、先週ロンドン北部で勃発した暴動があちこち飛び火して一部大変な騒ぎになっていました。私が今間借しているロンドン東部にあるスタジオの真下で騒ぎが起こった時は一瞬心臓飛び出るかと思いました。そこで暴れていたのは本当に若いキッズの集団で、今目の前で起こってる状況についていけず。一瞬にしてスタジオ近辺が戦闘モード。でも今はもうロンドンの暴動は収まったようです。

あとから知ったロンドン炎上の映像や写真のニュースと実際にここで感じる空気との温度差、怯える人々と冷静な人たちのギャップを目の前に、このちょっと激しすぎるいろんな人間と状況のギャップに私の頭はクラクラします。きっとこの暴動が拡大した原因にはイギリスの移民、人種、マイノリティーとか貧困の問題がぐちゃぐちゃに絡み合ってて、原因は私が思うよりずっと暗くて根深いもんだと感じます。社会っていろんなレイヤーで成り立っていて、もちろん私のいるレイヤーとこの現状のレイヤーは全然別レイヤーで存在していて、でもそんなレイヤーが何層にも重なりあった同じ社会に住んでるんだしと思うと、このイギリスの現状に実際凹む。
こんなことが起こった先週の後半。中心街はすでにまたいつも通りの大混雑で、暴動のあった地域はまだお店が開いてなかったり。私はここで気をつけながら暮らしていくしかないんだなぁと思う。世知辛い世の中だぁ。

ここ最近、写真/パフォーマンスを試し始めていて、ちょうどこの騒ぎがあった日も撮影に出掛けていたけど、この日の昼に入ったカフェの近くで突然騒ぎが起こったから、店の中に避難させられてしばらく外に出られなかったり、完全防備された戦車みたいな黒色の車が5、6台くらい目の前を通り過ぎて行ったり、スーパーの扉のガラスが割られていて、(普段からガラスが割られているのはよく見る。この時はそこまで気にしていなかった)不穏な空気がいつもより漂っていたからこの日は撮影するのをやめてスタジオへ戻ったのが本当によかった。
虫の知らせと言うか、しかしこんな断片を立て続けに見ると、さすがに外出する気も萎えたのが正直なところ。それでもまたこれから出来る限り外出する、気をつけながら出て行くしかない。

作品の試作については、ロンドンの街の中に無数に張り巡らされている「柵」と、道端に落ちてる「物体」に注目しながら鋭意作成中