2012年3月19日月曜日

2つの展示を見て


宮永です。
 
だいぶ前回から時間が空いてしまいました。村山さん、林さん両方の展示を見て、かつじっくり考えてから書きたかったもので。こういうときに東京—京都の距離を痛感します。
 
『成層圏vol.6「私」のゆくえ Tracing the Self 村山悟郎』について
村山さんの3つのコンセプト、「学習的ドリフト」「ドローイング/カップリング」「変態のダイアグラム」に基づいた展示はとても見応えがありました。

非線形という言葉が、絵画と映像と言う別のメディアにおいてどう解釈されるのかを見比べる事は、僕にとっても多いに意味が有ったと思っています。同時に村山さんの言う非線形と言う言葉の意味が、単純に観客の前に何かが一度に開示される、と言う意味とはまた違ったものを指向していると言う事も示されていたと思います。

村山さんの絵画表現においてはむしろ時間性を喚起させられました。「学習」「ドローイング」「変態」の3つの言葉も実際時間と関係するキーワードですね。まず、ある行為(運動という客観的な呼称ではなく、人間という主体が行なうものとしての行為)をその出発点から、任意の終わりの時点までを見せる事で喚起させられる時間性があります。その上での非線形とは何かと言う問いがそこに有ったように思います。村山さんの「1つの作品」と言う括りのなかでは、行為1が作るルールに規制された行為2があり、それら2つの行為の持つ時間は似て非なるものだということを感じました。

河本英夫さんとの対談を踏まえて思った事は、それら2つの間に存在する事をコミュニケーションと言う使い古された言葉でつなぐ事は間違いなのではないかと言う事でした。むしろ大事な事はそこにあるディスコミュニケーションであり、少々薄ら寒い(僕の主観ですが、、)その事実について見据える事こそが今すべき事なのではないか、そういう問題意識が僕の中に芽生えた気がします。それぞれの主体のもつ時間を相対化してしまう事で、非線形と言う、世界の実体に迫ろうとしている、、うまく言えませんがそう思いました。

『成層圏vol.7 行為の装填 Charging Action 林加奈子』について
林さんのトークを録画のもので拝見し、元来は制作と発表が一致していたわけではない、制作は現場で成立するものだったと言っておられましたが、僕としてはとても纏まっていた展示だったと思います。映像を中心とした展示になっていましたが、1つ1つの映像自体の質も高く、端的だったと感じました。

「みのむし」に関してのお話では、震災時にはロンドンにいた林さん自身が東京に戻ってこられた際に、留学前とは変わった東京(ひいては日本、だとお思いますが)の空気に対し探り探り接してゆくと言う事を表しているとの事でした。震災後の年を経た木々の葉っぱが落ち葉として落ちてきたときにその中に身を埋めると言うことは、とても沢山の意味合いを含んでいると感じました。積層された時間と言う事に加え、もっと即物的な、物質的な意味も考えられます。

また「時の娘」は、林さん自身のロンドン留学中から帰国後までの思考を、映像の中の樹木が受け入れてくれる気がした、と言う感覚を可視化したそうです。そう言うコンセプトを知って見た場合やはり多くの意味を感じます。自分の時間を解きほぐし、別の何ものかに移す、自分の時の中に付随した感情や思考を他者にのりうつさせると言う意味の行為。そんな事が可能なのかどうかも含め。
思考と物質をダイレクトにつなぐという事は、僕にはある種呪術的な行為に見えます。いわゆる「常識」や「論理」を一足飛びに超える行為のもたらす快感があります。ですがそういったある意味呪術的なものでも、美術としてプレゼンしたときに、その快感のさらに先に考えるべき意味性が現れてくると言う事は幸福な事だな、と林さんの展示を見て感じました。



僕の主観ですが、村山さんの展示も林さんの展示も、ともに時間と言うものが重要な要素でありながら、そこにあるアプローチの違いを見て取れたのはとても意義深い経験でした。

この感想がどこまで作品に迫れている文章になっているのかわかりませんが、僕としては受け取ったものがとても大きかったです。お二人の展示を拝見できて自分の思考の幅が広がったと思いますし、またαMでの展示の機会を頂いた結果このようなブログリレーに参加することが出来たことも、大変プラスになりました。ありがとうございました。