2011年7月27日水曜日

「再魔術化」

僕は田中正之さんのキュレーションで展覧会を作ります。テーマは「「私」のゆくえ」です。これは主体や、社会における「私」を扱う問題系であると思います。それは、僕の個展「絵画的主体の再魔術化」資生堂ギャラリー(2010)での意識とつながります。そこでまず、田中さんのステートメントを読み解くまえに、この「再魔術化」(re-enchantment)について概説してみたいと思います。

「再魔術化」というコトバを素朴に解釈すると、「再び魔術への扉を開く」というような、オカルトやスピリチュアルな世界観への回帰が想起されてしまうかもしれません。しかし、それはまったく違います。もともとこの語は、「デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化」モリス・バーマン(1981/ 柴田元幸 訳 1989)という著書の表題からきているのです。
中世から近代、そしてポストモダンの時代へとつづく人類史の流れの中で、どのようにその世界観は変遷していったか?「魔術化 - 脱魔術化 - 再魔術化」という概念を持ち出しながらモリスは語ります。
デカルトやベーコン、ガリレオやニュートンが築いた近代科学は、中世の錬金術や呪術といった魔術的世界観からの「脱魔術化」を意味しています。そしてそれは、世界を主体と客体とに切り離して捉える、世界に「参加しない意識」だと彼は批判するのです。
実際問題、量子力学の観測問題や不確定性原理などが発見されて、微細な量子の挙動を観測することは原理的にできないことが示されました。観測自体が対象に影響を及ぼしてしまうためにです。つまり、主体と客体を切り分ける”観測”という近代科学の認識法は十全ではなく、それによって捉えられない対象領域が世界に広がっていることがわかってきたのです。
そこまで来て、モリスはグレゴリー・ベイトソンの思想を紹介しています。再び世界に「参加する意識」を取り戻す、新たなる科学の認識論として。ベイトソンの思想は、サイバネティックスに大きな影響を受けた"関係の理論"です。それは”主体をふくんだ世界”を包括的に捉える全体論のマインドで満ちています。

僕は、ペインターの世界認識にもこの「参加しない意識」が流入していると考えています。そしてそこから「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」するとは何か?」と問いたいと考えたのです。

次回に引き続き書きたいと思います。

村山悟郎

2011年7月21日木曜日

Capture

村山さんのおっしゃる通り、僕に関してのノンリニアとは、編集と言う行為に絡めた認識から出発しています。タイムラインを作品に内在できると言う事は、逆にそれに縛られる事でもある訳です。ノンリニア編集を経ながら出てくるものがリニアである、と言う矛盾があるからこそ、その事に対してもがく事で僕の作る映像と言うものが生まれてくるように思います。

林さんのおっしゃっておられる、ある行為に対して、何をしているかではなく何故それをするのかと言う視点の持ち様のお話も興味深いです。僕は個々の作品制作に関しては最初に理由や理屈があるのではなく、作って行く過程や作り終えた後にそれを総括してゆく、と言う事が多いです。もちろんある程度のコンセプトは持っているのですが、僕の場合それは時とともにどうしても変化していってしまいます。我ながら非常に日本的だな、と思います。同時にそう言う在り方に一つの可能性を感じてもいます。

前回言いましたので、撮影についての僕の考えを一つ。この行為に対して僕の中での位置づけは、「既製品を買う、使う」と言うことの拡大解釈と言っても良いかもしれません。アニメーションや絵画と言うものは、一般的に一から創作すると言うイメージが強いと思うのですが、実写映像の場合イメージは基本的に借り物、現実をcaptureしたものです。しかし僕が思うに、実は絵画にも「画材」と言う概念がある以上、しかもそれが市場原理の上で売買されうるものである以上、既製品から出来上がっている訳です。

僕が時々「映像を絵の具のように使いたい」と言う時、実はそう言う意味合いも込めています。絵の具を買ってくるように、あるいは山まで鉱物を削りだしに行くでも良いですが、そう言う行為と撮影と言う行為を並列的に置くことから出発しています。並べる事で別々に見える行為の間にあるイメージ上の距離感・物差しの違いを一気に縮め、それらの間にある共通性を抽出する事が目的です。

(そう言う設定をする事で、僕の映像が美術のフィールドに出発点を持てると言う意味合いも勿論あります。いわゆる絵画彫刻等のファインアートに対し映像と言うメディアの文脈は多岐にわたり、また複雑に絡まっています。そして美術史的な意味で、遅れを取っている事も事実です。今僕が言っているコンセプト自体が美術的に新しいとは全く思いません。ただ美術分野に映像表現を載せる為には、僕としては通らなければならない道であると考えています。)

話を戻しますと、距離やスケールに惑わされずに、別々見せかけの行為の中に共通して含まれるシンプルな運動を浮き彫りにしたい。さらに言えばそう言う運動の中に何か指針が隠されているのではないか、そう思う訳です。次回はさらに詳しく語ろうと思います。

宮永亮

2011年7月11日月曜日

はじめまして/林加奈子

こんにちは、はじめまして。林加奈子と申します。私は鈴木勝雄さんキュレーション、「行為の装填」で来年2月から展示をします。(会期は2012年2月18日~3月25日です。)どうぞよろしくお願いします。

私は現在、ロンドン芸術大学チェルシーカレッジのアート・セオリー学科に交換留学生として在籍しています。昨年末からロンドンに住んでいて、最近ようやくロンドンの街に身体が慣れてきたところです。そして、雨が多くて曇り空でだいたい夜は冷えるロンドンの気候も、少しいい感じになってきました。


今回の展覧会では、ロンドンでこれから制作する作品を展示する予定です。

いつも私は作品を街の中(屋外)で作ります。自分自身の視点から、アートを使って、ロンドンという都市を自分自身が理解するためのアクション/パフォーマンス/をこれから展開する予定です。
最近、リサーチで外にでることが多いのですが、ひとつ興味深い発見がありました。観光地や繁華街ではない普通?の生活空間で写真をとりスケッチしていた時に、1人の通行人の人に声をかけられました。ここは公共空間、なのでいつも制作中は当然ですがそこに住む人や通行人の人たちとのさまざまな出会いがあります。彼は私に、なぜその写真を撮るのか?何のために撮るのか?この写真は何のために使うのか?と質問しました。私は彼の質問に対して、普通に答え、写真を撮り、スケッチを終え、その場を去ったのですが、こんなこと別に普通のなんでもないよくある出来事なんだけど、私はこの質問に、ロンドンの特徴が現れているな~と思い、すごく面白いなと感じました。だって、普通?こういうときって、最初の質問は、何をしているの? から始まるんじゃないのかな???
彼が知りたかったことは、何をしているの? ではなく、なぜそんなことするのか?という、理由で、そして、何のために撮るのか?と、その意味を問うている。いま英語圏に身を置く私にとっては、普通の日常の中にあるこの質問に、ここの人たちが言語で相互理解する、理屈からはじめる、といったひとつの特徴があらわれているように感じられました。
今まで色んな都市、街で作品制作をしてきた実感としてあるのは、私は観客:主にそこの住人や通行人の人たちが見せてくれるリアクションから、その都市を理解するための"きっかけ"を掴みます。ある場所である人は静かに観察/傍観し、他の場所で他の人は感情を表現し、または行動で、そのリアクションを見せてくれます。
そんなこんなで、もうしばらくはここの街に身を置き、この街で出会う出来事や人々との会話を通して、日常のスケッチを続けたいと思います。

林加奈子

2011年7月2日土曜日

ノンリニア

はじめまして、村山悟郎です。僕は本年12月から田中正之さんのキュレーションで展覧会をつくります。テーマは「「私」のゆくえ Tracing the "Self"」です。
宮永さんが「ノンリニア」の概念に触れながら、映像における時間のアイデアを示してくれました。おそらくそれは「ノンリニア編集」という映像編集の手法からくるものだと思います。

一方で、僕にとっての「ノンリニア」はまた少し意味合いが違っています。どちらかといえばそれは「非線形科学」(Nonlinear Science)のアイデアに大きな影響を受けているのです。この科学は複雑系のような非線形な現象(ex. 気象、経済、社会、生命)を扱います。例えば、ライフゲーム(Conway’s Game of Life)というコンピュータ上での計算モデルがあります。これは二次元セルオートマトンで生命の振る舞いをシミュレートするものです。無限に広がる平面空間を格子状に区切り(不連続な空間)、一つ一つの格子はセルとよばれ、0か1の二つの状態を持っています。時間は世代(ステップ)ごとに発展して(不連続な時間)、セルの次のステップの状態は近傍8つのセルの状態の配列(ローカルなルール)によって決まります。ローカルなルール(近傍の値によって自身の次の状態が決定する)は非常に高密度で複雑な相互作用をもたらします。ですからセルの状態の初期値によっては実に多様なパターンが獲得されてゆくのです。

このノンリニアな相互作用はコミュニケーションを構成要素にした社会的位相においても、多く見いだされると思います。周知の通りTwitterはネットワークメディアのなかでもノンリニアなコミュニケーションを実現しているわけです(事実、宮永さんとの交流が始まったのもTwitterからでした)。このブログも三人の不確定な要素が内装されることでノンリニアな相互作用を含む「成層圏」を形成できるのではないかと期待しています。

次回は僕も、田中正之さんが示したテーマについて考えてゆきたいと思います。

村山悟郎