2011年7月21日木曜日

Capture

村山さんのおっしゃる通り、僕に関してのノンリニアとは、編集と言う行為に絡めた認識から出発しています。タイムラインを作品に内在できると言う事は、逆にそれに縛られる事でもある訳です。ノンリニア編集を経ながら出てくるものがリニアである、と言う矛盾があるからこそ、その事に対してもがく事で僕の作る映像と言うものが生まれてくるように思います。

林さんのおっしゃっておられる、ある行為に対して、何をしているかではなく何故それをするのかと言う視点の持ち様のお話も興味深いです。僕は個々の作品制作に関しては最初に理由や理屈があるのではなく、作って行く過程や作り終えた後にそれを総括してゆく、と言う事が多いです。もちろんある程度のコンセプトは持っているのですが、僕の場合それは時とともにどうしても変化していってしまいます。我ながら非常に日本的だな、と思います。同時にそう言う在り方に一つの可能性を感じてもいます。

前回言いましたので、撮影についての僕の考えを一つ。この行為に対して僕の中での位置づけは、「既製品を買う、使う」と言うことの拡大解釈と言っても良いかもしれません。アニメーションや絵画と言うものは、一般的に一から創作すると言うイメージが強いと思うのですが、実写映像の場合イメージは基本的に借り物、現実をcaptureしたものです。しかし僕が思うに、実は絵画にも「画材」と言う概念がある以上、しかもそれが市場原理の上で売買されうるものである以上、既製品から出来上がっている訳です。

僕が時々「映像を絵の具のように使いたい」と言う時、実はそう言う意味合いも込めています。絵の具を買ってくるように、あるいは山まで鉱物を削りだしに行くでも良いですが、そう言う行為と撮影と言う行為を並列的に置くことから出発しています。並べる事で別々に見える行為の間にあるイメージ上の距離感・物差しの違いを一気に縮め、それらの間にある共通性を抽出する事が目的です。

(そう言う設定をする事で、僕の映像が美術のフィールドに出発点を持てると言う意味合いも勿論あります。いわゆる絵画彫刻等のファインアートに対し映像と言うメディアの文脈は多岐にわたり、また複雑に絡まっています。そして美術史的な意味で、遅れを取っている事も事実です。今僕が言っているコンセプト自体が美術的に新しいとは全く思いません。ただ美術分野に映像表現を載せる為には、僕としては通らなければならない道であると考えています。)

話を戻しますと、距離やスケールに惑わされずに、別々見せかけの行為の中に共通して含まれるシンプルな運動を浮き彫りにしたい。さらに言えばそう言う運動の中に何か指針が隠されているのではないか、そう思う訳です。次回はさらに詳しく語ろうと思います。

宮永亮

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