改めまして、展覧会に来て下さったみなさま、またはるばる遠くから来て下さった方々に、心からのお礼を。本当にどうもありがとうございました。私の人生初の個展、このタイミングで、この場所で、これらの作品を制作/発表できたことは、私の中で自分に起きた奇跡的な出来事として受け止めています。
今振り返ると、まだまだ至らなかったところも随分あったと思う。今回の展示で自分に課した目標がいくつかあったけど、その中の1つに、普段、制作現場が路上など公共空間にある私の作品を、どうやってギャラリー空間に持ち込むか、という課題があった。制作現場での興奮と発見は、私にとってやっぱり何ものにも変えられないものがある。だから、その制作現場から受け取った感覚に、どんな形を与え、あの時現場に流れていたあの時間をどのように切り取って、この空間で見せることができるのか。そのような初歩的な課題に立ち返って制作に取り組みました。
私自身が今回の作品制作を通してつかみ取りたかったものは、全体の作品のテーマになった、“時”。自分の言葉で言うならば、“不在の時”であり、それは、私のリアリティとして、1年間日本を留守にしたということを意味する。帰国後ずっとなんだか時間が逆回転しているような感覚の中にいた。つまりそれは、1年前の時を眺めながらも、実際今ここに流れる時を過ごしているという、そんな時の感覚のことである。一年前という時間は実際にはもう取り戻すことはできないけど、時間を遡るという考えを持って、樹木や落ち葉が持つ自然のサイクルに耳を傾けながら“不在の時”を取り戻そうとした。これは、一見ただの子どもの悪戯のように見られたかもしれないが、もし人と同じように樹木や落ち葉といった物質にも記憶があるのだとしたら、私は自分自身が行う行為を通して、物質に宿された記憶に思い巡らすことで“不在の時”を掬い上げられるのではないかと思った。
今回初めて“映像作品”と呼べるような作品を作り、映像作品について思うことは、映像というメディアのコアなところに“時間”があるという、映像入門の基本中の基本のようなことを、作り手としては今更ながら本当に改めて思い知らされた気がする。それでも、今改めて強く思えることは、私は「時の娘」の作品で、物質が持つ記憶の断片、物質が抱えているかもしれない記憶の断片を、新たな時間のながれとともに、“いま・ここ”につなげられたらいいと思った。そして、それを、“不在の時”の記憶の集積として、映像作品にして見せたかったんだと思う。
最後になりましたが、このブログにお付き合い下さったみなさま、そしてこのような思考の訓練の場と機会を下さった村山くん、宮永くんには最大の感謝を込めて。本当にどうもありがとうございました。
林加奈子