2011年10月27日木曜日

「行為する私」

宮永くん、展覧会オープンおめでとうございます。とても興味深い展示内容になっていました。どこか絵画的な映像によって「多層化する風景」が現出しているようでした。視点を移動させながらインスタレーションのなかを動くと、映像の構築と融解によって時間構造がゆらいでゆく、そんな感覚でしたね。

今回は僕の展覧会ステイトメントができましたので載せておきます。


「行為する私」とは何だろうか?そして、私たちはそれをどのようにして知ることができるだろうか?
私はこの問いにたいして、「学習的ドリフト」、「ドローイング/カップリング」、「変態のダイアグラム」という3つの画像的解釈を示したい。


「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動している。例えば、ペインターが画面に筆をいれるとき、その一筆一筆は前に形成された形態や色彩に制御されている。そのような観点においては、簡便にいえば、「私」とは一つのプロセス(動態)である。人間の行動を理解するためには、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めたプロセスとして考える必要がある、とベイトソン(Gregory Bateson)も述べている。


しかし、「私」を絶えず行為のさなかにあるプロセスとしてみたとき、対象として観察することが困難になってくる。自己は、知覚によって新たな自己を産出しつづけ、常にスライドしてゆくからである。よって、これまでこのプロセスへの理解は、現象学のように私によって「私」が内感され、そこから定式化された記述の系として織り上げられてきた。それが「私」というプロセスに照応されるのである。ただ、この理解はテクストの線形性を免れることはできない。では、そこからさらに踏み出してゆくにはどうすればよいのか?


私はフルッサー(Vilem Flusser)の「テクノ画像」(Techno image)という概念を経由することによって、「私」というプロセスの画像的解釈を試みる。「テクノ画像」とは、世界から言語が論理や関数的な関係性によってとりだす意味や概念、それを画像化する。いいかえれば「事態」を示す平面である。よって、それは世界を直接的に描写する絵とは根本的に異なっている。「テクノ画像」をつくり出すのは装置であるとフルッサーは述べているが、私は身体行為を含むコード化されたシステムを用いて、これを実践したい。それによって、「私」というプロセスの線形的な理解から、平面的な解釈へとシフトする。


ではそのプロセスとは、どのような作動のモードが考えられるだろうか? この展覧会では3つの動態を提示する。「ドリフト Drift」、「カップリング Coupling」、「変態Metamorphose」である。これらは河本英夫氏のオートポイエーシスの諸概念が大きな参照項になっている。オートポイエーシスの画像的解釈によって、「私」というプロセスの別様の理解の局面を開いてゆきたい。それが、私が投企する”「私」のゆくえ”である。

村山悟郎

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