ご無沙汰しております。投稿が随分と遅くなりすみませんでした。
今月上旬に無事日本へ帰国しました。
帰国後早々、約1年ぶりに訪れたaMギャラリーでは宮永さんの展示を拝見することができました。会場では映像作品が上映されていて、私が映像から一番最初に受けた印象は「温度の低い冷たい水」でした。これは私自身「水」に対して親近感・関心をもっている個人的な理由もありますが、きっとあの漁師さんが乗った小舟が水面に浮かんでいる映像や、延々と畑の風景が続く映像からは、今までみえていなかったものが見えてきて、1つには震災後に浮かび上がる東北の地図を思いました。同じ表現者として、いまここで東京で何をすべきかと考えていることもあり、良いタイミングで宮永さんの展示から刺激をうけました。どうもありがとう。
時差ぼけや向こうとの気温の違いで、まだぼんやり寝ていた身体と頭に、突然冷たすぎる水を全身にぶっかけられたような、そんな体験でした。
話変わって、先日タクシーに乗ったときの運転手さんとの会話、運転手さんが語ってくれた“皮肉な話”が興味深かったので以下にメモ。
私:震災後に何かお仕事で変わったこととかなんかありましたか?
運転手:液状化で千葉の浦安の方なんかは大変ですよ〜。
私:何が大変なんですか?
運転手:液状化で道を走るのが大変ですよ。道が膨らんでるから膨らんでるところ迂回しなくちゃいけなくなったし、だけど膨らみを緩やかにするためにその周りにセメント詰めたりして、道をならしているよ。
私:じゃあ道が丘になってるみたいな感じなんですか!?!
運転手:そんな感じだね。
運転手:あとはね、“皮肉な話”があってね、あのあたりはゴミの埋め立て地と高級住宅街なんだけど、皮肉なことに、高級住宅街の地面が傾いちゃったり液状化して大変だったんだけど、ゴミの埋め立て地は地面がゴミでできてるから、水分もなにも漏れてこなくって、なんともないんだよ。。ほんと、これ“皮肉な話”ですよねぇ〜。笑。その高級住宅街の傾いたお家、半壊しちゃったお家の方なんかがいってたのは、建物の傾いた角度によって国の保証のあり/なしが決まってるんですって、家が傾いてるんだけどその角度以下の方なんかは、もう全壊してくれた方がよかったのに〜なんておっしゃっていますけどね。ははは、笑。
私:うん、私だったらどうするかな、家さかさまにするかな(冗談)それより、坂道に建ってる家みたいな仕様にするかな。
終わりーーーーーーーーーーーーー
1つ今の東京の状況を知る手がかりとして、ちょっとこんなやり方で色んな人に話を聞いたりしながらひとつづつ状況を掴んでいます。2、3cm浮き足立ったような感覚と少し調子っぱずれのこれらの感覚をどう作品に料理するか。。。こんな感じで帰国後の制作が始まりました。
林加奈子
2011年11月29日火曜日
2011年11月22日火曜日
仮まとめ
ぐっと遅れてしまいましたが、ブログ更新致します。宮永です。
あっという間にもうすぐ搬出作業と言う時期、次は村山さんの展示ですが、おそらく僕の搬出作業と村山さんの搬入作業がかぶると思うので、展示の一端にみなさんより先に触れられるかと。とても楽しみです。
現在開催中の僕の展示をご覧頂いた方、有り難うございます。
美術作品は、その見方、もっと言えば個々の観客の方が作品イメージから想起される身体感覚・イメージに対する記憶等を作品に「投影」すると言う行為、に関して、あらかじめある程度の流れが設定されている事(あるいはその流れが端的であること)が、作品の距離を親密にするものだと思います。
ただ今回に関してはそう言う親密さを解体するような方向性を持っている訳です。
実写映像(動画)を美術に導入する場合に、映画的にも、あるいは写真でも可能であると言うイメージはあると思いますが、さらにアニメーションやモーション・グラフィックスも、技術上可能になってきています。今はそれらの可能性を探っているのですが、それらの映像分野の細目の違いに言及する事にも興味を持っています。素材自体を示す事で今度はそれら細目の差異をも見せられないかと言うのが理由の一つ。実写と言う言葉のイメージから飛躍したいと言う気持ちもあります。
コンテンツとそれが載るメディアと言う視点も一つです。これは現代における多様化したメディアと言う流れのなかでは、映像表現が避けては通れないもので、また内容と分断可能な媒体が世界のありとあらゆるところに広がりつつある現状に、それらが不可分な状態を長らく価値としてきた美術がどう相対するかと言う話になってくると思います。
それら二つの理由から、中心となる映像作品を解体した訳ですが、その際に使った概念はやはり「レイヤー」と言う事になります。
実写でありながらアニメーションライク、あるいはモーション・グラフィクスライクな、あるいは時々一部CGを使っていると誤解されることもあるので、CGライクなとも言えると思いますが、僕の作品内ではそれらは全て平面レイヤー構造で作られています。ただし、その一つ一つのレイヤー自体が実写映像と言う、ある程度の奥行き感を持ったものであり、重ねてゆく(編集する)と言う過程でそれらの奥行きの情報がどのように変質してゆくか、と言う事が僕にとって一番大事な事です。
また、これはプロジェクションと言う形式の場合に限定されるかもしれませんが、内容(映像)と媒体(物質)をともに意味的レイヤーと言う概念の元に並列化しようと試みました。これに関しては、まだまだ先のある試みだと思っています。
と言うのが現時点でのまとめです、が、何故解体したか、と言う事に関して今回2つの理由を上げましたが、自分の中で3.11の影響が無かったと言う訳でもありません。と言うか、非常に大きかった。単純に解体可能と言う事よりは再び組上げる事が可能な構造体であると言う事も大事で、自分の中にある非定住性の暮らしに対する興味等、論理的な強度で言えば様々なレベルの異なる意味が、レイヤーとして重ねられている状態です。
今言えるのは、作品(インスタレーション)の内部構造として、うまく重なるかわからない意味のレイヤーをある種無理矢理に重ねてゆくと言う行為は、映像作品を作る過程の延長線上にある、と言う事でしょうか。つまり、映像と言うリアリティーの側から逆に現実を見ているのだと思います。
つらつら書いているとだいぶ字数がオーバーしてしまいました。まとまりがありませんが、今回はこのくらいで。
最終日には下道さん、高橋さんとのトークイベントもあります、宜しければお越し下さい。
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