2011年9月23日金曜日

泣きながら生きる人/林加奈子



こんにちは。9月、ロンドン、最近はまだ暖かく過ごしやすい日々です。
先日、こちらの国際交流基金が主催するトークショーに行って来ました。国際交流基金は定期的に日本からのゲストを招いてレクチャーやプレゼンテーションなどを開催します。お客さんはいつもだいたい半分が日本人で、その他色んな国籍の方が来ています。私は日本の情報や動きを知るために度々これに参加しています。

今回のゲストは美術家の小沢剛さんで、とても面白いプレゼンテーションでした。プレゼンテーションでは、小沢さんのキャラクターと彼の作品のユーモアセンスが混ざり合い、会場には度々笑いが起こっていました。日本人だけに伝わる笑いや、しょーもない笑いではなくて、お客さん皆それぞれがマイペースにクスクスと笑う、そんな、いい空気が流れる時間でした。たとえ国籍や笑いのツボが違っても、ユーモアを共有し、一緒に笑うことができる。同じ人間だもんなぁ、と改めてそんなことぼんやり考えたりしました。

小沢さんの新作の映像「Happy island」と言うタイトルの10分くらいの映像作品を紹介してくれたのですが、これを見て涙が出た。その理由は、、今はよくわからない、と、しておきたい。思考よりも先に、グッと感情が込み上げてきて、胸がいっぱいになったから。いくらでも言葉にできるような気がするけど、今は言葉に置き換えることよりも、もうすぐ日本に戻るまでこの感情を大切にしていたいと思う。

小沢さんの制作、彼もしかしたら泣きながら生きている人間なんじゃないかな?と思った。
小沢さんはいろんなタイプの作品があるけど、いくつかの作品の中に、人間が持つ美しい1側面を見せられているような気がして、なんかキラッと光っている、彼、ハートが熱い。人に世界を信じる勇気を与える。

林加奈子

2011年9月6日火曜日

「再魔術化」pt2

12月からのαMでの僕の個展も少しずつ近づいてきました。先日、イギリスから完全に帰国して、今は立川にスタジオをかまえて制作しています。

ロンドンの様子は林さんの言う通り、多文化主義の坩堝(るつぼ)といった感じでした。とても多くの民族と文化が流入していながらも、それらの各レイヤーが維持されているという印象でしたね。林さんがどんな答えを出すのか、楽しみです。
宮永くんのテクストを読んでいると「情報と物質の中間項」を探っているのかな、というイメージが沸いてきます。「厚み」というコトバに含まれている内実が映像に現れてくると思うとワクワクしますね。


さて前回に引き続き「再魔術化」について書いてゆきます。「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とはいったいどういうことでしょうか?いまいちど、僕の個展「絵画的主体の再魔術化」資生堂ギャラリー(2010)から考えてゆきたいと思います。その個展ではG.ベイトソンの「精神の生態学」から引用したテクストを配付しました(以下URL、参照)。

http://goromurayama.com/works/works_d/works_02.html

ここでベイトソンは、サイバネティックスな思考法において、”「私」を画定すること”とは何か?ということを、盲人の歩行を例に説明しています。その思考法とは以下のようなことです。人間の行動を説明ないしは理解しようとするとき、原則として、トータルな完結したサーキットの全体を相手にしなくてはなりません。(ベイトソン「精神の生態学」)」
つまり彼のいう「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動しています。そのような観点においては、簡便にいえば「私」とは一つのプロセスです。そして、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めて考えることが必要なのです。主体の再魔術化とはそのような認識論に基づいています。ベイトソンのこうしたアイデアについて佐々木正人は、ギブソンの「アフォーダンス」と、"精神を広く世界に観察しようとする態度において" 一致していると指摘しています。

「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とは、『絵画』を「絵画的主体」(絵を描く人)として捉えるところから始まると考えています。引き続き、書いて考えます。

村山悟郎