2011年9月6日火曜日

「再魔術化」pt2

12月からのαMでの僕の個展も少しずつ近づいてきました。先日、イギリスから完全に帰国して、今は立川にスタジオをかまえて制作しています。

ロンドンの様子は林さんの言う通り、多文化主義の坩堝(るつぼ)といった感じでした。とても多くの民族と文化が流入していながらも、それらの各レイヤーが維持されているという印象でしたね。林さんがどんな答えを出すのか、楽しみです。
宮永くんのテクストを読んでいると「情報と物質の中間項」を探っているのかな、というイメージが沸いてきます。「厚み」というコトバに含まれている内実が映像に現れてくると思うとワクワクしますね。


さて前回に引き続き「再魔術化」について書いてゆきます。「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とはいったいどういうことでしょうか?いまいちど、僕の個展「絵画的主体の再魔術化」資生堂ギャラリー(2010)から考えてゆきたいと思います。その個展ではG.ベイトソンの「精神の生態学」から引用したテクストを配付しました(以下URL、参照)。

http://goromurayama.com/works/works_d/works_02.html

ここでベイトソンは、サイバネティックスな思考法において、”「私」を画定すること”とは何か?ということを、盲人の歩行を例に説明しています。その思考法とは以下のようなことです。人間の行動を説明ないしは理解しようとするとき、原則として、トータルな完結したサーキットの全体を相手にしなくてはなりません。(ベイトソン「精神の生態学」)」
つまり彼のいう「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動しています。そのような観点においては、簡便にいえば「私」とは一つのプロセスです。そして、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めて考えることが必要なのです。主体の再魔術化とはそのような認識論に基づいています。ベイトソンのこうしたアイデアについて佐々木正人は、ギブソンの「アフォーダンス」と、"精神を広く世界に観察しようとする態度において" 一致していると指摘しています。

「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とは、『絵画』を「絵画的主体」(絵を描く人)として捉えるところから始まると考えています。引き続き、書いて考えます。

村山悟郎

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