2011年12月16日金曜日

明日から

こんにちは、村山です。ついに『成層圏 vol.6「私」のゆくえ Tracing the Self 村山悟郎』が12月17日(土)から始まります。9月にイギリスより帰国して初めての個展になります。ぜひ多くの皆さんにご覧いただきたいです。

田中正之さんの示したテーマ“「私」のゆくえ”をうけて、僕は「行為する「私」とは何か?「私」はそれをどのように知るのか?」という問いをたて展覧会に臨みます。作動しつづけながら自ずと変化する自己の動態、それを捉える3つの画像「学習的ドリフト」「ドローイング/カップリング」「変態のダイアグラム」を提示したいと考えています。
新発表作の「変態のダイアグラム」は展示会場の壁面に直接描画してあります。本展覧会場で会期中にしかご覧になれませんので、お見逃しなく!

これまで慌ただしく準備してきましたが、多くの皆様の協力を得てここまで来られたことに感謝いたします。キュレーターの田中正之さん、αMディレクターの保谷香織さんには展覧会について様々なご教示をいただきました。(株)資生堂には展覧会にご賛同いただき協賛をいただきました。家族にはたくさんの支えをもらいましたし、母には織り作品の紐の下処理までやっていただきました。パートナーの三好愛さんには、忙しいなか休日返上でダイアグラムの線描を手伝ってもらいました。また、ウォールドローイングでは多くの後輩の助力を受け完遂することができました。彼らの能力の高さに感嘆しています。高橋里花さん、甘原千聖さん、呉 梨沙さん、有馬莉菜さん、内藤京平くん、出野虹大くん、外口理恵さん、佐々木祥景くん、ありがとう。他にも紐の下処理を手伝ってくれた倉田悟くん、壇上真理奈さん、小室あゆみさんに感謝します。友人のアーティストである有賀慎吾くん、川田淳くん、須賀悠介くんには展示設置作業を手伝ってもらうだけでなく、多くの対話によって刺激をもらいました。このブログに付き合ってくれた宮永亮くんと林加奈子さんにも改めてお礼を申し上げます。

年明けの1月14日(土)には、ゲストに河本英夫さんをお迎えしてトークイベント「アートとオートポイエーシスは出会えるか?」も企画いたしました。河本英夫さん(東洋大学教授)は哲学者で、日本のオートポイエーシス研究の第一人者です。このトークイベントはアートとオートポイエーシスが交感するとても貴重な機会になるかと思いますので、こちらも是非ご期待ください。

村山悟郎

2011年11月29日火曜日

帰国。東京制作開始/林加奈子

ご無沙汰しております。投稿が随分と遅くなりすみませんでした。
今月上旬に無事日本へ帰国しました。
帰国後早々、約1年ぶりに訪れたaMギャラリーでは宮永さんの展示を拝見することができました。会場では映像作品が上映されていて、私が映像から一番最初に受けた印象は「温度の低い冷たい水」でした。これは私自身「水」に対して親近感・関心をもっている個人的な理由もありますが、きっとあの漁師さんが乗った小舟が水面に浮かんでいる映像や、延々と畑の風景が続く映像からは、今までみえていなかったものが見えてきて、1つには震災後に浮かび上がる東北の地図を思いました。同じ表現者として、いまここで東京で何をすべきかと考えていることもあり、良いタイミングで宮永さんの展示から刺激をうけました。どうもありがとう。
時差ぼけや向こうとの気温の違いで、まだぼんやり寝ていた身体と頭に、突然冷たすぎる水を全身にぶっかけられたような、そんな体験でした。

話変わって、先日タクシーに乗ったときの運転手さんとの会話、運転手さんが語ってくれた“皮肉な話”が興味深かったので以下にメモ。

私:震災後に何かお仕事で変わったこととかなんかありましたか?
運転手:液状化で千葉の浦安の方なんかは大変ですよ〜。
私:何が大変なんですか?
運転手:液状化で道を走るのが大変ですよ。道が膨らんでるから膨らんでるところ迂回しなくちゃいけなくなったし、だけど膨らみを緩やかにするためにその周りにセメント詰めたりして、道をならしているよ。
私:じゃあ道が丘になってるみたいな感じなんですか!?!
運転手:そんな感じだね。
運転手:あとはね、“皮肉な話”があってね、あのあたりはゴミの埋め立て地と高級住宅街なんだけど、皮肉なことに、高級住宅街の地面が傾いちゃったり液状化して大変だったんだけど、ゴミの埋め立て地は地面がゴミでできてるから、水分もなにも漏れてこなくって、なんともないんだよ。。ほんと、これ“皮肉な話”ですよねぇ〜。笑。その高級住宅街の傾いたお家、半壊しちゃったお家の方なんかがいってたのは、建物の傾いた角度によって国の保証のあり/なしが決まってるんですって、家が傾いてるんだけどその角度以下の方なんかは、もう全壊してくれた方がよかったのに〜なんておっしゃっていますけどね。ははは、笑。
私:うん、私だったらどうするかな、家さかさまにするかな(冗談)それより、坂道に建ってる家みたいな仕様にするかな。

終わりーーーーーーーーーーーーー

1つ今の東京の状況を知る手がかりとして、ちょっとこんなやり方で色んな人に話を聞いたりしながらひとつづつ状況を掴んでいます。2、3cm浮き足立ったような感覚と少し調子っぱずれのこれらの感覚をどう作品に料理するか。。。こんな感じで帰国後の制作が始まりました。

林加奈子

2011年11月22日火曜日

仮まとめ

 ぐっと遅れてしまいましたが、ブログ更新致します。宮永です。    
あっという間にもうすぐ搬出作業と言う時期、次は村山さんの展示ですが、おそらく僕の搬出作業と村山さんの搬入作業がかぶると思うので、展示の一端にみなさんより先に触れられるかと。とても楽しみです。

現在開催中の僕の展示をご覧頂いた方、有り難うございます。

    
美術作品は、その見方、もっと言えば個々の観客の方が作品イメージから想起される身体感覚・イメージに対する記憶等を作品に「投影」すると言う行為、に関して、あらかじめある程度の流れが設定されている事(あるいはその流れが端的であること)が、作品の距離を親密にするものだと思います。

   
ただ今回に関してはそう言う親密さを解体するような方向性を持っている訳です。

   
実写映像(動画)を美術に導入する場合に、映画的にも、あるいは写真でも可能であると言うイメージはあると思いますが、さらにアニメーションやモーション・グラフィックスも、技術上可能になってきています。今はそれらの可能性を探っているのですが、それらの映像分野の細目の違いに言及する事にも興味を持っています。素材自体を示す事で今度はそれら細目の差異をも見せられないかと言うのが理由の一つ。実写と言う言葉のイメージから飛躍したいと言う気持ちもあります。

   
コンテンツとそれが載るメディアと言う視点も一つです。これは現代における多様化したメディアと言う流れのなかでは、映像表現が避けては通れないもので、また内容と分断可能な媒体が世界のありとあらゆるところに広がりつつある現状に、それらが不可分な状態を長らく価値としてきた美術がどう相対するかと言う話になってくると思います。

   
それら二つの理由から、中心となる映像作品を解体した訳ですが、その際に使った概念はやはり「レイヤー」と言う事になります。

   
実写でありながらアニメーションライク、あるいはモーション・グラフィクスライクな、あるいは時々一部CGを使っていると誤解されることもあるので、CGライクなとも言えると思いますが、僕の作品内ではそれらは全て平面レイヤー構造で作られています。ただし、その一つ一つのレイヤー自体が実写映像と言う、ある程度の奥行き感を持ったものであり、重ねてゆく(編集する)と言う過程でそれらの奥行きの情報がどのように変質してゆくか、と言う事が僕にとって一番大事な事です。

   
また、これはプロジェクションと言う形式の場合に限定されるかもしれませんが、内容(映像)と媒体(物質)をともに意味的レイヤーと言う概念の元に並列化しようと試みました。これに関しては、まだまだ先のある試みだと思っています。

   
と言うのが現時点でのまとめです、が、何故解体したか、と言う事に関して今回2つの理由を上げましたが、自分の中で3.11の影響が無かったと言う訳でもありません。と言うか、非常に大きかった。単純に解体可能と言う事よりは再び組上げる事が可能な構造体であると言う事も大事で、自分の中にある非定住性の暮らしに対する興味等、論理的な強度で言えば様々なレベルの異なる意味が、レイヤーとして重ねられている状態です。

    
今言えるのは、作品(インスタレーション)の内部構造として、うまく重なるかわからない意味のレイヤーをある種無理矢理に重ねてゆくと言う行為は、映像作品を作る過程の延長線上にある、と言う事でしょうか。つまり、映像と言うリアリティーの側から逆に現実を見ているのだと思います。

つらつら書いているとだいぶ字数がオーバーしてしまいました。まとまりがありませんが、今回はこのくらいで。

 
最終日には下道さん、高橋さんとのトークイベントもあります、宜しければお越し下さい。

2011年10月27日木曜日

「行為する私」

宮永くん、展覧会オープンおめでとうございます。とても興味深い展示内容になっていました。どこか絵画的な映像によって「多層化する風景」が現出しているようでした。視点を移動させながらインスタレーションのなかを動くと、映像の構築と融解によって時間構造がゆらいでゆく、そんな感覚でしたね。

今回は僕の展覧会ステイトメントができましたので載せておきます。


「行為する私」とは何だろうか?そして、私たちはそれをどのようにして知ることができるだろうか?
私はこの問いにたいして、「学習的ドリフト」、「ドローイング/カップリング」、「変態のダイアグラム」という3つの画像的解釈を示したい。


「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動している。例えば、ペインターが画面に筆をいれるとき、その一筆一筆は前に形成された形態や色彩に制御されている。そのような観点においては、簡便にいえば、「私」とは一つのプロセス(動態)である。人間の行動を理解するためには、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めたプロセスとして考える必要がある、とベイトソン(Gregory Bateson)も述べている。


しかし、「私」を絶えず行為のさなかにあるプロセスとしてみたとき、対象として観察することが困難になってくる。自己は、知覚によって新たな自己を産出しつづけ、常にスライドしてゆくからである。よって、これまでこのプロセスへの理解は、現象学のように私によって「私」が内感され、そこから定式化された記述の系として織り上げられてきた。それが「私」というプロセスに照応されるのである。ただ、この理解はテクストの線形性を免れることはできない。では、そこからさらに踏み出してゆくにはどうすればよいのか?


私はフルッサー(Vilem Flusser)の「テクノ画像」(Techno image)という概念を経由することによって、「私」というプロセスの画像的解釈を試みる。「テクノ画像」とは、世界から言語が論理や関数的な関係性によってとりだす意味や概念、それを画像化する。いいかえれば「事態」を示す平面である。よって、それは世界を直接的に描写する絵とは根本的に異なっている。「テクノ画像」をつくり出すのは装置であるとフルッサーは述べているが、私は身体行為を含むコード化されたシステムを用いて、これを実践したい。それによって、「私」というプロセスの線形的な理解から、平面的な解釈へとシフトする。


ではそのプロセスとは、どのような作動のモードが考えられるだろうか? この展覧会では3つの動態を提示する。「ドリフト Drift」、「カップリング Coupling」、「変態Metamorphose」である。これらは河本英夫氏のオートポイエーシスの諸概念が大きな参照項になっている。オートポイエーシスの画像的解釈によって、「私」というプロセスの別様の理解の局面を開いてゆきたい。それが、私が投企する”「私」のゆくえ”である。

村山悟郎

2011年10月17日月曜日


皆様、ご無沙汰しています。
ブログの更新が滞っておりご迷惑をおかけしております。村山さんすいません。

本日までまさに僕個人のgallery αMにおける展示作業が大詰めだったのです。ようやく先程、9割がたの作業を終えて今一息ついているところです。

僕のブログについて村山さんが「情報と物質の中間項」と言う風におっしゃって下さいましたが、今回の僕の展示もその意味合いを持って見て頂ければ、だいぶわかりやすく見て頂けるのではないでしょうか。

情報として世界を駆け巡れるというのは、映像の強みです。ただ現代において「情報」という言葉が必ずしも好ましいものとしてのイメージだけを持っているのではないことを考えれば、それは弱みでもあると言えます。

ちょっとだけネタをバラしておくと、今回は画廊の中に一つの建物というか、小屋を組み立てました。そしてその部屋は、建築資材や合板、木材を使用した、繰り返し組み立て・解体の可能な構造となっています。

今回メインのイメージとして、新作の”arc”と言う映像作品をプロジェクションしますが、それらに使った素材や編集途上の映像(僕はこれを中間素材と呼んでいます)も空間上に展開します。実際の物質部分でも、上記の小屋の個々の部品がスクリーンとして展開されます。

前回申し上げた「厚み」と言うものは映像作品の中に意味のレイヤー構造による意味上の厚みでした。今回のインスタレーション狙いの1つには、その厚みと実際の物質の厚みを対比させて見られるものをと言うのも勿論あります。
ですがそれをもうちょっと進めると、映像も物質も意味のレイヤーとして等価に、並列的に見る、と言う視点に行き着くと僕は思います。情報と物質と言うものの間に本質的な差異を見いだす事よりも、双方をありのままに現実として受け入れると言う姿勢の重要さを僕は感じています。

今回どこまでそのコンセプトを実現させられたか、そのご判断はギャラリーで展示を見て頂いた方々に委ねたいと思います。

宮永亮

2011年9月23日金曜日

泣きながら生きる人/林加奈子



こんにちは。9月、ロンドン、最近はまだ暖かく過ごしやすい日々です。
先日、こちらの国際交流基金が主催するトークショーに行って来ました。国際交流基金は定期的に日本からのゲストを招いてレクチャーやプレゼンテーションなどを開催します。お客さんはいつもだいたい半分が日本人で、その他色んな国籍の方が来ています。私は日本の情報や動きを知るために度々これに参加しています。

今回のゲストは美術家の小沢剛さんで、とても面白いプレゼンテーションでした。プレゼンテーションでは、小沢さんのキャラクターと彼の作品のユーモアセンスが混ざり合い、会場には度々笑いが起こっていました。日本人だけに伝わる笑いや、しょーもない笑いではなくて、お客さん皆それぞれがマイペースにクスクスと笑う、そんな、いい空気が流れる時間でした。たとえ国籍や笑いのツボが違っても、ユーモアを共有し、一緒に笑うことができる。同じ人間だもんなぁ、と改めてそんなことぼんやり考えたりしました。

小沢さんの新作の映像「Happy island」と言うタイトルの10分くらいの映像作品を紹介してくれたのですが、これを見て涙が出た。その理由は、、今はよくわからない、と、しておきたい。思考よりも先に、グッと感情が込み上げてきて、胸がいっぱいになったから。いくらでも言葉にできるような気がするけど、今は言葉に置き換えることよりも、もうすぐ日本に戻るまでこの感情を大切にしていたいと思う。

小沢さんの制作、彼もしかしたら泣きながら生きている人間なんじゃないかな?と思った。
小沢さんはいろんなタイプの作品があるけど、いくつかの作品の中に、人間が持つ美しい1側面を見せられているような気がして、なんかキラッと光っている、彼、ハートが熱い。人に世界を信じる勇気を与える。

林加奈子

2011年9月6日火曜日

「再魔術化」pt2

12月からのαMでの僕の個展も少しずつ近づいてきました。先日、イギリスから完全に帰国して、今は立川にスタジオをかまえて制作しています。

ロンドンの様子は林さんの言う通り、多文化主義の坩堝(るつぼ)といった感じでした。とても多くの民族と文化が流入していながらも、それらの各レイヤーが維持されているという印象でしたね。林さんがどんな答えを出すのか、楽しみです。
宮永くんのテクストを読んでいると「情報と物質の中間項」を探っているのかな、というイメージが沸いてきます。「厚み」というコトバに含まれている内実が映像に現れてくると思うとワクワクしますね。


さて前回に引き続き「再魔術化」について書いてゆきます。「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とはいったいどういうことでしょうか?いまいちど、僕の個展「絵画的主体の再魔術化」資生堂ギャラリー(2010)から考えてゆきたいと思います。その個展ではG.ベイトソンの「精神の生態学」から引用したテクストを配付しました(以下URL、参照)。

http://goromurayama.com/works/works_d/works_02.html

ここでベイトソンは、サイバネティックスな思考法において、”「私」を画定すること”とは何か?ということを、盲人の歩行を例に説明しています。その思考法とは以下のようなことです。人間の行動を説明ないしは理解しようとするとき、原則として、トータルな完結したサーキットの全体を相手にしなくてはなりません。(ベイトソン「精神の生態学」)」
つまり彼のいう「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動しています。そのような観点においては、簡便にいえば「私」とは一つのプロセスです。そして、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めて考えることが必要なのです。主体の再魔術化とはそのような認識論に基づいています。ベイトソンのこうしたアイデアについて佐々木正人は、ギブソンの「アフォーダンス」と、"精神を広く世界に観察しようとする態度において" 一致していると指摘しています。

「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」する」とは、『絵画』を「絵画的主体」(絵を描く人)として捉えるところから始まると考えています。引き続き、書いて考えます。

村山悟郎

2011年8月30日火曜日

厚み

いよいよ僕自身のαMでの展示も近づいてきました。現時点の僕の力量からすれば、大掛かりなものになるとは思います。京都→東京への輸送の段取りだけで大変そうですが、頑張ろうと思います。

再魔術化、重なり合うレイヤー、どちらもとても重要な言葉のように思います。

僕個人は科学的思考というものは、ある仮説に対し、その仮説を裏付ける観測が出来るだけ多くある場合、それが限りなく真実に近いと言える、と言う統計的手法のイメージが強いです。勿論昨今の科学はもっと進歩、変遷しているのでしょう(ustreamでかの児玉教授が言っておられた、パラメーターの多少の話が興味深かったです)が、一般的理解と言う意味では僕の持つイメージに近いかも知れません。物質の大小を計る物差しは、思考の上ではどこまでも任意に大きく広げてゆけるし、その逆も然りで、想像の上ではスケールと言うものは無限に続く訳ですが、統計学的に考えた場合「真実」と「限りなく真実に近い」はどれだけ観測数を増やしても、その間にある差は永遠に埋まらないばかりか視点が微視的になってゆけば行くだけ、その差は広がってゆくような感覚に陥るかもしれません。僕はそこが面白いとも思うのですが。

レイヤーと言う言葉を使う場合、ある世界の中にある異質なもの異質な層の分化←→重層と言う両方向性が思いつきます。物理的な現実における各々の意味のレイヤーは、視点のミクロマクロの程度により一つのレイヤーがさらにいくつものレイヤーに分かれて見えたり、またレイヤー自体に凹凸があり(これを僕は今厚みと表現しようと思いますが)、実写映像はそれが厚さゼロに圧縮されてしまうような奇妙なものだと思っています。イメージ自体が確固として存在するのでは無く、色の違う光が物質面を照らし出していると言うのが、結局のところ実際に起こっている全てでもあります。前回映像を絵の具のように、と言いましたが、他に自分のアプローチについて言える事があるのなら、ある実写イメージに別の実写イメージを重ねる事で、不思議に圧縮が解かれてレイヤーが分離し、さらにその隙間に何ものかが流れ込んで新たな厚み=奥行きを獲得する瞬間を待っているのだ、、、と言えるかもしれません。

程よく文章にも再魔術をかけたところで(?)、今回はこの辺で失礼します。


宮永亮

2011年8月15日月曜日

ロンドン生活/夏の終わり



こんにちは。林加奈子です。ロンドンは大学が終わり夏休みに突入しました。街のムードはバカンスで中心街は世界中からの観光客で大混雑しています。そんな中、先週ロンドン北部で勃発した暴動があちこち飛び火して一部大変な騒ぎになっていました。私が今間借しているロンドン東部にあるスタジオの真下で騒ぎが起こった時は一瞬心臓飛び出るかと思いました。そこで暴れていたのは本当に若いキッズの集団で、今目の前で起こってる状況についていけず。一瞬にしてスタジオ近辺が戦闘モード。でも今はもうロンドンの暴動は収まったようです。

あとから知ったロンドン炎上の映像や写真のニュースと実際にここで感じる空気との温度差、怯える人々と冷静な人たちのギャップを目の前に、このちょっと激しすぎるいろんな人間と状況のギャップに私の頭はクラクラします。きっとこの暴動が拡大した原因にはイギリスの移民、人種、マイノリティーとか貧困の問題がぐちゃぐちゃに絡み合ってて、原因は私が思うよりずっと暗くて根深いもんだと感じます。社会っていろんなレイヤーで成り立っていて、もちろん私のいるレイヤーとこの現状のレイヤーは全然別レイヤーで存在していて、でもそんなレイヤーが何層にも重なりあった同じ社会に住んでるんだしと思うと、このイギリスの現状に実際凹む。
こんなことが起こった先週の後半。中心街はすでにまたいつも通りの大混雑で、暴動のあった地域はまだお店が開いてなかったり。私はここで気をつけながら暮らしていくしかないんだなぁと思う。世知辛い世の中だぁ。

ここ最近、写真/パフォーマンスを試し始めていて、ちょうどこの騒ぎがあった日も撮影に出掛けていたけど、この日の昼に入ったカフェの近くで突然騒ぎが起こったから、店の中に避難させられてしばらく外に出られなかったり、完全防備された戦車みたいな黒色の車が5、6台くらい目の前を通り過ぎて行ったり、スーパーの扉のガラスが割られていて、(普段からガラスが割られているのはよく見る。この時はそこまで気にしていなかった)不穏な空気がいつもより漂っていたからこの日は撮影するのをやめてスタジオへ戻ったのが本当によかった。
虫の知らせと言うか、しかしこんな断片を立て続けに見ると、さすがに外出する気も萎えたのが正直なところ。それでもまたこれから出来る限り外出する、気をつけながら出て行くしかない。

作品の試作については、ロンドンの街の中に無数に張り巡らされている「柵」と、道端に落ちてる「物体」に注目しながら鋭意作成中

2011年7月27日水曜日

「再魔術化」

僕は田中正之さんのキュレーションで展覧会を作ります。テーマは「「私」のゆくえ」です。これは主体や、社会における「私」を扱う問題系であると思います。それは、僕の個展「絵画的主体の再魔術化」資生堂ギャラリー(2010)での意識とつながります。そこでまず、田中さんのステートメントを読み解くまえに、この「再魔術化」(re-enchantment)について概説してみたいと思います。

「再魔術化」というコトバを素朴に解釈すると、「再び魔術への扉を開く」というような、オカルトやスピリチュアルな世界観への回帰が想起されてしまうかもしれません。しかし、それはまったく違います。もともとこの語は、「デカルトからベイトソンへ - 世界の再魔術化」モリス・バーマン(1981/ 柴田元幸 訳 1989)という著書の表題からきているのです。
中世から近代、そしてポストモダンの時代へとつづく人類史の流れの中で、どのようにその世界観は変遷していったか?「魔術化 - 脱魔術化 - 再魔術化」という概念を持ち出しながらモリスは語ります。
デカルトやベーコン、ガリレオやニュートンが築いた近代科学は、中世の錬金術や呪術といった魔術的世界観からの「脱魔術化」を意味しています。そしてそれは、世界を主体と客体とに切り離して捉える、世界に「参加しない意識」だと彼は批判するのです。
実際問題、量子力学の観測問題や不確定性原理などが発見されて、微細な量子の挙動を観測することは原理的にできないことが示されました。観測自体が対象に影響を及ぼしてしまうためにです。つまり、主体と客体を切り分ける”観測”という近代科学の認識法は十全ではなく、それによって捉えられない対象領域が世界に広がっていることがわかってきたのです。
そこまで来て、モリスはグレゴリー・ベイトソンの思想を紹介しています。再び世界に「参加する意識」を取り戻す、新たなる科学の認識論として。ベイトソンの思想は、サイバネティックスに大きな影響を受けた"関係の理論"です。それは”主体をふくんだ世界”を包括的に捉える全体論のマインドで満ちています。

僕は、ペインターの世界認識にもこの「参加しない意識」が流入していると考えています。そしてそこから「ペインター(絵画的主体)を「再魔術化」するとは何か?」と問いたいと考えたのです。

次回に引き続き書きたいと思います。

村山悟郎

2011年7月21日木曜日

Capture

村山さんのおっしゃる通り、僕に関してのノンリニアとは、編集と言う行為に絡めた認識から出発しています。タイムラインを作品に内在できると言う事は、逆にそれに縛られる事でもある訳です。ノンリニア編集を経ながら出てくるものがリニアである、と言う矛盾があるからこそ、その事に対してもがく事で僕の作る映像と言うものが生まれてくるように思います。

林さんのおっしゃっておられる、ある行為に対して、何をしているかではなく何故それをするのかと言う視点の持ち様のお話も興味深いです。僕は個々の作品制作に関しては最初に理由や理屈があるのではなく、作って行く過程や作り終えた後にそれを総括してゆく、と言う事が多いです。もちろんある程度のコンセプトは持っているのですが、僕の場合それは時とともにどうしても変化していってしまいます。我ながら非常に日本的だな、と思います。同時にそう言う在り方に一つの可能性を感じてもいます。

前回言いましたので、撮影についての僕の考えを一つ。この行為に対して僕の中での位置づけは、「既製品を買う、使う」と言うことの拡大解釈と言っても良いかもしれません。アニメーションや絵画と言うものは、一般的に一から創作すると言うイメージが強いと思うのですが、実写映像の場合イメージは基本的に借り物、現実をcaptureしたものです。しかし僕が思うに、実は絵画にも「画材」と言う概念がある以上、しかもそれが市場原理の上で売買されうるものである以上、既製品から出来上がっている訳です。

僕が時々「映像を絵の具のように使いたい」と言う時、実はそう言う意味合いも込めています。絵の具を買ってくるように、あるいは山まで鉱物を削りだしに行くでも良いですが、そう言う行為と撮影と言う行為を並列的に置くことから出発しています。並べる事で別々に見える行為の間にあるイメージ上の距離感・物差しの違いを一気に縮め、それらの間にある共通性を抽出する事が目的です。

(そう言う設定をする事で、僕の映像が美術のフィールドに出発点を持てると言う意味合いも勿論あります。いわゆる絵画彫刻等のファインアートに対し映像と言うメディアの文脈は多岐にわたり、また複雑に絡まっています。そして美術史的な意味で、遅れを取っている事も事実です。今僕が言っているコンセプト自体が美術的に新しいとは全く思いません。ただ美術分野に映像表現を載せる為には、僕としては通らなければならない道であると考えています。)

話を戻しますと、距離やスケールに惑わされずに、別々見せかけの行為の中に共通して含まれるシンプルな運動を浮き彫りにしたい。さらに言えばそう言う運動の中に何か指針が隠されているのではないか、そう思う訳です。次回はさらに詳しく語ろうと思います。

宮永亮

2011年7月11日月曜日

はじめまして/林加奈子

こんにちは、はじめまして。林加奈子と申します。私は鈴木勝雄さんキュレーション、「行為の装填」で来年2月から展示をします。(会期は2012年2月18日~3月25日です。)どうぞよろしくお願いします。

私は現在、ロンドン芸術大学チェルシーカレッジのアート・セオリー学科に交換留学生として在籍しています。昨年末からロンドンに住んでいて、最近ようやくロンドンの街に身体が慣れてきたところです。そして、雨が多くて曇り空でだいたい夜は冷えるロンドンの気候も、少しいい感じになってきました。


今回の展覧会では、ロンドンでこれから制作する作品を展示する予定です。

いつも私は作品を街の中(屋外)で作ります。自分自身の視点から、アートを使って、ロンドンという都市を自分自身が理解するためのアクション/パフォーマンス/をこれから展開する予定です。
最近、リサーチで外にでることが多いのですが、ひとつ興味深い発見がありました。観光地や繁華街ではない普通?の生活空間で写真をとりスケッチしていた時に、1人の通行人の人に声をかけられました。ここは公共空間、なのでいつも制作中は当然ですがそこに住む人や通行人の人たちとのさまざまな出会いがあります。彼は私に、なぜその写真を撮るのか?何のために撮るのか?この写真は何のために使うのか?と質問しました。私は彼の質問に対して、普通に答え、写真を撮り、スケッチを終え、その場を去ったのですが、こんなこと別に普通のなんでもないよくある出来事なんだけど、私はこの質問に、ロンドンの特徴が現れているな~と思い、すごく面白いなと感じました。だって、普通?こういうときって、最初の質問は、何をしているの? から始まるんじゃないのかな???
彼が知りたかったことは、何をしているの? ではなく、なぜそんなことするのか?という、理由で、そして、何のために撮るのか?と、その意味を問うている。いま英語圏に身を置く私にとっては、普通の日常の中にあるこの質問に、ここの人たちが言語で相互理解する、理屈からはじめる、といったひとつの特徴があらわれているように感じられました。
今まで色んな都市、街で作品制作をしてきた実感としてあるのは、私は観客:主にそこの住人や通行人の人たちが見せてくれるリアクションから、その都市を理解するための"きっかけ"を掴みます。ある場所である人は静かに観察/傍観し、他の場所で他の人は感情を表現し、または行動で、そのリアクションを見せてくれます。
そんなこんなで、もうしばらくはここの街に身を置き、この街で出会う出来事や人々との会話を通して、日常のスケッチを続けたいと思います。

林加奈子

2011年7月2日土曜日

ノンリニア

はじめまして、村山悟郎です。僕は本年12月から田中正之さんのキュレーションで展覧会をつくります。テーマは「「私」のゆくえ Tracing the "Self"」です。
宮永さんが「ノンリニア」の概念に触れながら、映像における時間のアイデアを示してくれました。おそらくそれは「ノンリニア編集」という映像編集の手法からくるものだと思います。

一方で、僕にとっての「ノンリニア」はまた少し意味合いが違っています。どちらかといえばそれは「非線形科学」(Nonlinear Science)のアイデアに大きな影響を受けているのです。この科学は複雑系のような非線形な現象(ex. 気象、経済、社会、生命)を扱います。例えば、ライフゲーム(Conway’s Game of Life)というコンピュータ上での計算モデルがあります。これは二次元セルオートマトンで生命の振る舞いをシミュレートするものです。無限に広がる平面空間を格子状に区切り(不連続な空間)、一つ一つの格子はセルとよばれ、0か1の二つの状態を持っています。時間は世代(ステップ)ごとに発展して(不連続な時間)、セルの次のステップの状態は近傍8つのセルの状態の配列(ローカルなルール)によって決まります。ローカルなルール(近傍の値によって自身の次の状態が決定する)は非常に高密度で複雑な相互作用をもたらします。ですからセルの状態の初期値によっては実に多様なパターンが獲得されてゆくのです。

このノンリニアな相互作用はコミュニケーションを構成要素にした社会的位相においても、多く見いだされると思います。周知の通りTwitterはネットワークメディアのなかでもノンリニアなコミュニケーションを実現しているわけです(事実、宮永さんとの交流が始まったのもTwitterからでした)。このブログも三人の不確定な要素が内装されることでノンリニアな相互作用を含む「成層圏」を形成できるのではないかと期待しています。

次回は僕も、田中正之さんが示したテーマについて考えてゆきたいと思います。

村山悟郎

2011年6月23日木曜日

はじめまして

宮永です。本年度のαMにおける展覧会シリーズ「成層圏 Stratosphere」で、高橋瑞木さんキュレーションの「風景の再起動 Reactivating Landscapes」において展示をいたします。

僕の作品作りは、ビデオカメラで映像を撮る、と言う事がすべての出発点となります。始めに何か絵コンテのようなものを描いたり、作品の内容を組み立ててから撮影に向かう訳ではありません。

一般的に実写を使う映画などの映像作品を「製作」するという場合、事前に入念な計画をたてたり、撮影の段取りをするのが普通かと思います。それらは質の高い映像、我々が携帯のカメラでスナップ的に撮る動画とは比べ物にならないほど、ノイズのうつり込まない完成された絵を得るための努力です。

時間軸の一瞬間を切り取ることのできる写真とは違い、動画は恵まれた、あるいは事前にそのために作られた条件下でなければ、意図しない要素=ノイズが映り込む確率が格段に高いメディアです。何故なら動画は、我々が暮らす現実とリニアな時間軸を共有しているからです。現実の移ろい行く時間の流れの中では、美しい風景や好ましい出来事も永遠にとどまる事は無く、時に悲惨な光景や醜い感情に塗り替えられ、過去へと押しやられてゆきます。元には戻れません。僕は素材としての動画撮影と言う行為を通して、そう言ったノイズを肯定する作業がしたいと考えています。僕にとって「制作」はリニアな現実との格闘でもあります。

撮影を通してこのように現実をとらえている故に、村山さんが最初に触れて下さった「ノンリニア」と言う概念の大切さを痛感する様になったのかもしれません。僕の解釈ではノンリニアに考える事とは、時間軸を超えて様々な要素を並列的に並べ、吟味し、有機的な関係性をそれら諸要素の中に見いだすという事です。有機的と言うのは、その関係性も任意に組み替え可能というのが常態と言う意味です。その意味で今回の「成層圏」と言うタイトルに非常に親近感を覚えます。

未だ全体像は曖昧ですが、リニアでノイジーな映像素材と言うものを使いながらノンリニアな思考の流れを生み出す作品、と言うのが、今回僕の中での大きな目標の一つです。

まずはご挨拶まで。次回は撮影と言う行為についてもうちょっと突っ込んだ話が出来ればと思います。

宮永亮

2011年5月25日水曜日

「成層圏」

 2011年度、Gallery αMの展覧会企画「成層圏 Stratosphere」(主催:武蔵野美術大学)の出展アーティスト、林加奈子、宮永亮、村山悟郎の3人によるブログリレーを公開いたします。この展覧会の詳細情報は下記URLにてご覧ください。

http://www.musabi.ac.jp/gallery/exhibition.html

この「成層圏 Stratosphere」の特徴の一つは、高橋瑞木さん、鈴木勝雄さん、そして田中正之さんの3人のキュレーターによって企画されているところにあります。展覧会の概要において、鈴木氏はこう述べています。『美術に特有の表現の強度が、複数の意味の層が重なりあって、豊かな多義性を発揮することにある』。また、『意味を発生させる層が流動性を失うことなく曖昧に連なり、その各層を想像力が横断的に飛翔することを予感させる空間として「成層圏」という語を読み替えていきたい』と。3人はそれに呼応するようにそれぞれに異なる軸のテーマを設定しています。一つの「成層圏」という領域の中に多義的なテーマが内包されているのです。
「風景の再起動 Reactivating Landscapes」(高橋氏:宮永)
「行為の装填 Charging Action」(鈴木氏:林)
「「私」のゆくえ Tracing the “Self”」(田中氏:村山)

「成層圏」が成立する条件が流動性にあるのだとすれば、アーティストも単にそれぞれの個展を完遂するにとどまらず、それに応じる必要があると考えました。現在、林と村山はロンドンで、宮永は京都で活動を展開しています。そこでネット空間を利用したブログリレーを企画するに至りました。ノンリニアにそれぞれのまなざしが交錯する場として。
近代が社会を専門分化していった過程のなかで、アートにおいても「認識/社会/主体」といったテーマや、「メディア/行為/造形」といったメチエの分断が引き起こされているのではないでしょうか?私たちはそれらを”横断的に飛翔”しなければならないと考えています。特に3.11以降、そのことを強く感じているのです。「成層圏」というコトバにそうした意志を託して、このブログの開始を宣言したいと思います。

村山悟郎